射手村
「現代弓道講座 第4巻 弓具施設編 (弓具の構造と特徴)」(浦上栄・石岡久夫・曽根正康・稲垣源四郎共著)によると、「当時(江戸時代・明治時代等)は現代のように弓師が製作から販売まで一貫しておこなう独立したものではなく、資材、販売においては弓問屋が扱ったのであり、弓師の製作したものは、問屋が責任を持って銘を入れたのである」とあります。
弓師が藤放しの弓を製作した後の工程も、村取りをする工程、漆塗弓にする場合は塗りの工程があり、現代ではほとんど聞きませんが、江戸時代まで弓師が製作した藤放しの弓を弓問屋が買い上げ、藩に販売した後、藩の村師が村取りしたり、射手である武士が村取りをする、射手村と呼ばれる、射手が仕上げるプロセスもありました。宮田純治が若い頃、第二次世界大戦後の日本では、まだ弓道師範による射手村の弓があり、以下の写真は浦上栄先生による射手村の弓になります。
自身の師範が仕上げた弓をそばで見ていたり所有したりしながら、宮田純治は自身でも射手村を行うようになります。全日本弓道連盟から和弓代表選手として選抜された時、最長90mの距離においても世界レベルのアーチェリー選手と競争できる弓を得る為、世界初のグラスファイバーFRPを使用した変則の射手村による和弓を製作することになります。
浦上栄先生の村取りによる、射手村の弓(作:肥後三郎、村:浦上栄)
※ミヤタの「節つき加工 枯らし弓風」、及び標準モデルの「枯竹風」は、上記の弓のような経年変化による竹の風合いをモデルに製作しています。
宮田純治が、射流し大会で使用した射手村の弓(作:南﨑美利、村:曽根正康)
射手村もルーツに持つミヤタの弓は、製作現場においても、弓道の錬士、五段レベルの弓道をよく知る射手でもある職人が、今日までミヤタの製作現場を支えてくれています。