弓道の矢束とアーチェリーのクリッカー

弓道教歌 

「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 三つの矢束を よく口伝せよ」(日置流竹林派)

「引く矢束 引かぬ矢束に ただ矢束 放つ離れに 離さるるかな」(日置流印西派等)

この日置流の弓道教歌について複数の解釈の説明を確認していますが、「伸合でこれ以上引けないという状態の『引かぬ矢束』が最もよい矢束、『引く矢束』は伸合でまだひける余力のある矢束で習得途上の矢束、『ただ矢束』は会で詰合から伸合が無い矢束」という解釈が、宮田純治が師事していた浦上栄先生の兄弟子にあたり、弓道教本第一巻のメイン執筆者である日置流印西派免許皆伝・弓道範士十段の故 村上久先生、同じく兄弟子にあたる日置流印西派免許皆伝・弓道範士九段の故 稲垣源四郎先生、同じく日置流印西派免許皆伝・弓道教士八段の宮田純治のこの弓道教歌の解釈が一致しており、この解釈を基に説明させていただきます。江戸時代に日置流竹林派を修めた平瀬光雄先生の「射学精要」(寛政11年刊)に記載されている「射は和漢とも引き満ちて発するを至極とす。」という見解とも一致しており、平瀬光雄先生の説明では「弓の性能と矢束の関係の物理特性は日本の弓も中国の弓も同じ」、ということになります。平瀬光雄先生が中国の弓について触れたように、中国古来の射・及びその精神は古来より日本の弓道への影響も大きく、「礼記射義」の一部抜粋が弓道教本第1巻に掲載されています。

ここでも弓の耐久性と性能の相反関係があり、耐久性の観点からは、引きすぎは弓への負荷を大きくし(「たぐる」などの誤った引き方は矢の引込等の安全の問題も有り)、竹弓の竹切れ、こうがいおき等につながるトラブルとなる可能性が出て望ましくないとされる反面、弓の性能の観点からは、並寸は85㎝以上・二寸伸は90㎝以上最低でも引かないと、弓の張力を最大化してその弓が持つ本来の性能を最大限に発揮できない、という相反関係があります。

一定以上の矢束をとり十分に弓を引かないと弓の性能が最大に発揮されない、というのは洋の東西を問わない弓と矢束の関係の物理現象であり、この点において、弓道もアーチェリーも同じ特性があります。アーチェリーのクリッカーの目的を理解すると、この矢束・引き矢尺と弓射の関係が、非常によくわかります。クリッカーの発明により一定の正確な矢束を引くことができるようになって、アーチェリーの平均得点が飛躍的に上がったそうで、それほど弓射において正確な矢束をとるは非常に重要で、かつ難しい、ということになります。

「動画解説: 魔法の道具 クリッカー」 PRO Select Project (a-rchery.com)

アーチェリー史の中でも、卓越した弓射技術を語り継がれているレイ・ロジャーズ選手は、クリッカーが登場しそれが搭載されたアーチェリーの弓が主流になったWorld Archery Championships 1967 (宮田純治が参加した大会)においても、あえてクリッカーを使わずに、まるで弓道の達人のように自身の弓射技術で正確な矢束をとり、本大会で優勝しています。そのレイ・ロジャーズ選手の卓越した弓射技術は、アーチェリーの世界でも特別な存在として語り継がれているようです。下記の記事でも、「クリッカーは、アーチェリー最大の発明」と説明されているほど、正確な一定の矢束をとることが重要ということになります。

クリッカーの考察 PRO Select Project (a-rchery.com)

https://www.a-rchery.com/clicker7.htm

実は弓道の和弓において、個人個人の矢束とは別に弓具の視点で、弓自体の性能を最大化する為のそれぞれの弓長の弓に必要な最低の引き矢尺、というのが古来より並寸85㎝以上、二寸伸で90㎝以上、という定めがあります。これは旧制専門学校の浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)福原教授の物理の実験結果により、それら古来の伝承が正しかった事が証明されています。その実験は、弦を張った弓の握りの位置で、弦に重りをかけ、その重りの重量を1キロずつ増やしていき、その都度引き矢尺が伸びていく、というものです。重りの増加と共に弓が椀曲し張力が増大していくが、ある引き矢尺において、弓の椀曲と張力の増大の割合が非常に緩やかになり、一定の引き矢尺の増分に対する張力の増大が最大化される引き矢尺が、計測されました。それが弓長七尺三寸の並寸の弓で二尺七寸五分であった、つまり古来から伝えられる並寸標準の矢束とほぼ同じ長さであった、というものです。

つまり弓の性能の観点からは、自身の矢束をよく知り、その矢束で弓の能力が最大化される最低の矢束を上回ることが、その弓最大の能力発揮につながる、ということになり、この性能視点の観点からも、自身の矢束にあった弓を選択することが重要になります。弓道の和弓の場合は、本来は60mの遠的の弓射においても、放物線の仰角・着弾点の計算をアーチェリーのサイト(照準器)があるかのように行ってその仰角に従って射るのではなく(近的との相対的な狙いの差異やほおづけの位置の変更はあります)、遠的でも堂射で生まれた射法・弓具により、可能な限り真っ直ぐに飛ばす射法であることを踏まえると、近的・遠的もいくつかの心得等の差異はありつつも、基本は同じになります。いったん耐久性の側面をおいて弓の性能の点のみに着目すると、めいいっぱい自分の矢束を引いた状態で、最後の角見の働きで弦枕から弦が外れる、というのが伝統弓道の射法になります。

弓道の「会」について、日置流印西派では会が「詰合」「伸合」「やごろ」の三段階にわけて定義がありますが、これは弓手起点の和弓の弓射の物理特性に照らして、非常に理解しやすい概念になり、流派で打ち起こしが違えど、大三からは流派に限らず物理現象としての射手の動作や弓具の働きはほぼ同じである為、この概念で説明します。「詰合」とは引き分けて矢が頬につき、会のスタート地点ですが、「伸合」とは、それまで詰合までに弓道の正しい射法で全身を使い弓を引き、弓手で角見を利かせながら、体を割り込みつつ、馬手は親指の付け根あたりで弦押ししている状態から、それでもまだガッチリと弦は弦枕にかかっているため、その弦枕から弦を外すために、更にそれまでの延長上の力の働きで弓手の角見を利かし、さらに体を割り込み、馬手も弓手とバランスして弦押ししながら引き、弦枕から弦がはずれる準備ができた段階(やごろ)まで、伸び合う状態をいいます。つまり、物理現象としてはその間にも更に弓をじわじわと伸び合って引いている事になり、「伸合」、と呼ばれます。そのプロセスの間に矢を引き込まない為にも、矢の長さは自身の矢束から更に十分な余裕を持った長さにする必要があります。宮田純治は、浦上栄先生から「詰合から矢が一寸(約3㎝)、弓の内側に入るくらい、伸び合うつもりで引きなさい」という指導を受けておりますが、それくらい弦枕から弦を外す過程の伸合は大変で、やごろに達するのは角見の利きの強弱含めてその他あらゆる要素が含まれるので、離れる時間や引く長さは射手の射術や弓力、その他弓射の様々な要因により必ず同じタイミングでは無く、「やごろに達して更なる角見の働きで弦枕から弦が外れる」、という物理現象として理解するのが、最も自然な理解となるかと思います。その性質からもわかる通り、アーチェリーでは馬手で「releaseリリース、放す」ですが、弓道では「放す」ではなく「離れ」という言葉が古来より使われてきたのは、この為になるようです。

浦上栄先生は著書で「やごろ」について、「もはや左右に伸びる事の出来なくなった刹那で、時間で計測することはできない」、また「やごろに達したならば、たとえ時間は短くとも、極言すれば矢が的についてなくとも、離れる時機なので、会に入って五秒持ったり六秒を保ったといっても、ただ耐えているだけでは意味がない。六秒保ってもやごろに達せず放ったら早気(はやけ)の域に入るし、二秒で離れてもやごろに達して離れたならば早気ではない。早気とは時間で測るべきでなく、やごろに達したか否かで測るのである。」と説明しています。詰め合いからやごろに達するまでの物理現象について、上記の説明のとおり時間軸を取り除き、角見の働きにより弓をひねる力と弓を引く矢束の長さ等の他の物理的な視点で理解すると、それぞれ合理的に理解できます。実際には村上久先生の論文で説明がありますが、伸合の時間は、弓力や弓射の技術によっても変わります。弓力の弱い弓を使えば、弱めの角見の働きでも弓が捻りやすく矢束を取りやすく、時間軸では短時間にやごろに達する事も可能です。弓道の三悪癖うちの二つ、「早気(はやけ)」や「付け離れ・ゆるみ離れ」(残りの悪癖は「不好(ぶすき)」弓道が好きでない事)は、このやごろのタイミングで更なる角見が利かなかったり、躊躇したり様々な気の迷い等からくることが多い、と古来伝えられています。

古来より、入門したての頃からしばらくの間10kg程度の弓力の弱い弓で稽古するのは、いきなり強めの弓で引くと、初心者の角見の働きでは会に入っても弓はびくともせず、とても弦枕から弦を外す訓練すらできず、引き分けでも弓の力で押し戻され肩が縮こまったりして射型も崩れてしまったり、角見が利かず馬手離れになりやすい、早気になりやすい等、射の問題を多く引き起こすリスクが高い為です。「弓射の要諦」(村上久範士 講義用教材)の「伸合」の説明にある「成年・壮年期の男子平均で6秒程度」、という伸合の時間は、村上久先生のご経験から当時の一般的な場合の説明をされていた模様ですが、それなりの弓力の弓を用いるとそれくらい角見の働きで弦枕から弦を外すのは大変、ということになります。浦上栄先生ほどの達人となると著書にも記載がありますが、鋭い角見を利かせ、詰合から2秒程度の短時間の伸合でやごろに達し、弦枕から弦を外すことができたようです。江戸時代の堂射の射手は、24時間以内に矢数が数千射から1万射に至るほど、矢継早に矢数をかけなければならない場合でも、強弓でも短時間でやごろに達する程の弓射の技術があった為に実現できた実績になります。やごろに達しないただの速射だと、とても120mの距離を5mの弾道制限下では矢勢がでず、矢が通るほどに飛ばない点からも、その物理的な合理性が確認できます。平瀬光雄先生の「射学要録」(天明8年)の説明で、「的前はしばらく持たるのみ。骨法を知らざるは同事なり。骨法を知らずして早く射れば、矢に強み無く矢業なし。比類多し。惑わさるる事なかれ。差矢遅速の調子は骨法熟得の上ならでは知る事あたはじ。」という説明からも、その裏付けがされています。

ひとつの例として宮田純治は、30kgまで弓力を上げていく中で、強弓の非常に強い戻る力に抗して弦枕から弦が外せるほどの角見を利かせるのが非常に大変で、やはり伸合の時間がかかることがあり、一時期モタレに苦しんだ時期がありました。このような宮田純治自身の経験からも裏打ちされていますが、上記の説明の通り、離れまでの伸合の時間は弓力や弓射技術、その他様々な要因が複雑に絡み合っており、「離れ」という言葉にも表されている通り、やごろに達して「離れる」時間は射手が完全にコントロールすることは難しくひとつの目安であり、全身を使い弓手と馬手がそれぞれの役割を果たし、弦枕から弦を外せるようやごろに達するまで矢束いっぱいに弓を引き、鋭い角見を利かせ続ける、ということが重要なポイントであります。

上記の説明に照らすと、弓道教歌の「引かぬ矢束」、これ以上引けないというぐらいめいいっぱい引く矢束、が最上の矢束、という説明は、弓具の物理特性の視点から、弓射の性能を最大化する為の弓手起点の弓射の説明として、非常に端的で的確な教え、ということになります。改めて、昔の武士・射手の驚異的な弓道の射術に驚かされると共に、弓道教歌で伝えられる弓道の教えの合理性を感じます。

別の日置流の弓道教歌では、

弓を引き 弦を引くとに 二つあり 押手はりこそ 弓はひくなれ

(解釈) (引き分けの)三分の二から残りを押手(弓手)、勝手(馬手)へ等分に惹きつけるまで押手を張り伸ばすようにして離れ時に角見を主として、勝手は無意識に離れる心がけで修行すれば、矢勢が強くなる。反対に押手を先に的に当てがい、勝手ばかりを引くのを弦を引く、といい、押手が守勢となって弱い業となる。ものを射抜く根本は、引き様にあるという事である。

ちなみに大三(だいさん)とは、元々の意味は「推し大目(おしおおめ)引き三分の一」であり、力の割合が引き(馬手)が三分の一くらい、押手(弓手)の力の割合が大目で三分の二くらい、という意味になります。これは、弓道教本第一巻記載の「射法訓」(吉見順正[台右衛門])の「弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き」という力の配分の教えと一致しています。

「放つ離れに 離さるるかな」とは、弓道教本第4巻「離れ」にも「各流派ともはなれは放すにあらず」と説明があるとおり、この弓道教歌の下の句の解釈は、「馬手で放つ離れは、弓の戻る力を自身が制御しきれず、会に至っても角見の弓を捻る働きで弓手で離れることができない為に、自身の意思に反して馬手離れで離されてしまう」という意味になります。

このように自然科学の物理現象の視点から見ても合理的な弓射について、古来より弓道の教えとして弓道教歌にて、伝えられてきました。まだなぜ「口伝」なのかと言えば、日本が中央集権体制で統一されるまでは、軍用としての弓術の極意は秘密情報であり、口伝された為のようです。口伝で正確に多数の人々に伝えるのはコミュニケーション手段としての難しさがあり、天下泰平の江戸時代になり、大和流では各流派で秘伝として教えられていた教歌、極意を最初から公開していた点も、時代背景を感じる興味深い事実であります。

現代の射手においても、上記の古い伝統の教えに沿った弓道の心得は、非常に有用なものと考えております。耐久性・安全性の観点から、まずそれぞれ自身の矢束の長さをしっかりと把握し、自身の矢束に合う弓長の弓や使用する弦を含めて自身にあった弓具を選び、かつ弓射においては矢束を十分にとり、弓手起点の弓射を身に着けることが、安全に、かつ将来にわたって自身の体や弓具を痛めないように、かつ弓の性能を最大に発揮して弓射をする重要なポイントになります。

(出典)

・「平瀬光雄弓道論集」(平瀬光雄著 入江康平編)

・「紅葉重ね・離れの時機・弓具の見方と扱い方」(弓道範士十段 浦上栄 著 浦上直・浦上博子 校注)

・「弓射の要諦」(村上久 講義用教材) 

・「日置流六十箇条」

・「現代弓道と教歌」石岡久夫著

・「弓道教本 第四巻」公益財団法人全日本弓道連盟

・PRO Select Project (a-rchery.com)