ミヤタのグラスファイバーFRP弓、一般弓道用として発売

1967年(昭和42年)当時の弓道環境は既に現在のように、武士が職業として弓を引く時代ではなく、学生の部活動や、趣味として弓を引くことが主流の時代になっていました。

弓には強い部分と弱い部分があり、竹弓では1張の弓ごとに個別の特徴・性質を見分け、強い部分を押しながら慎重に弓を張る事が破損を避け正しく弓を張る基本となり、また張ってから竹弓が安定するまでに時間がかかります。稽古・練習に準備から終了まで数時間程度のことも多い現代の弓道シーンにおいて、常に弓の状態が安定しており張った直後から弓がひけるグラスファイバーFRPの弓は、現代の弓道環境にも非常に適している、と宮田純治は考えていました。

1967年世界弓術大会に使用した宮田純治自作のグラスファイバー弓は、内竹・外竹部分にグラスファイバーFRPを使っていても、もとは伝統の竹弓がベースであり、宮田純治は、全く新しい概念や形状の和弓を作り出したわけではありません。竹弓の名弓の性能を保存し、かつ矢勢・的中をグラスファイバーFRPのしなやかで強い反発力により更に高めた性能良く常に形状が安定した弓道用の和弓は、一般の弓道用としても非常によいもの、との確信が宮田純治にありました。

宮田純治がイギリスに渡った時に知った、伝統のロング・ボウとモダン・アーチェリーの関係にみられたように、アーチェリーでも伝統の弓射術の継承がありました。同じように弓道でも、竹弓とグラスファイバーFRP弓は共存できるものであり、ミヤタがグラスファイバーFRP弓を一般弓道用に展開しても、それが竹弓竹矢とも共存しながら伝統弓道を維持発展していく事につながる、という信念が当時よりありました。実際、ミヤタがグラスファイバーFRP弓を発売して50年以上が経過した今も、竹弓とグラスカーボン弓は共存し、それぞれが弓道の伝統の維持発展に貢献してきたと感じています。

1967年の世界弓術大会、イギリス訪問を終えた宮田純治は帰国後、早速製品としての一般弓道用の和弓の開発に着手しました。芯材を良質でしなやかな木材に変え、開発の結果、伝統の和弓の形状・成を保存しつつ、性能を更に高めたグラスファイバーFRP弓を完成させました(現在のA型)。弓の自重が軽く、しなやかで引き分け柔らかく、角見の利いた射が出れば矢勢鋭く的中良い、かつ振動も極めて少ない、と性能を自負できる弓道用の弓、として一般販売できると判断しました。内竹のFRPも矛先に入れ、竹弓では弓の張外しがまずいだけでも起こってしまう首折のリスクを軽減し、FRPの耐久性によりこうがいおきのリスクを低減できる点も利点としてありました。

しかし、非常に新しい取り組みである弓道用のグラスファイバーFRP弓を製作・販売していくという、今でいうベンチャー企業的取り組みに対しては、当時の日本はベンチャーキャピタルもクラウドファンディングも無い時代で、公的金融機関から一部借入ができたものの、事業に必要な十分な資金調達も難しい状況でした。そんなとき支えてくれたのが弓引き仲間で、浦上道場の同門の飯島崇晴さん、同じく弓友の親族が経営する山本板金様が、このグラスファイバーFRP弓が弓道界の将来にとって重要な弓具になると賛同してくださり、私財から資金を貸してくださいました。そしてブランドとしては宮田の(M)に加え、ともに弓道で切磋琢磨し、資金も貸してくださった飯島さん(Y) からブランド名をとり、当初は「MY KYUGU」というブランド名で、MY弓具SS(せいさくしょ)、宮田と飯島の弓具製作所、という意味もこめて、個人事業主の屋号で出発しました。

「MY KYUGU」ミヤタのグラスファイバーFPR弓

真っ黒に塗った竹の節が無い表面のツルンとしたグラスファイバーFRP弓は、当初はこれが和弓なのか、と印象を持つ人もいましたが、伝統の竹弓を範とし、その性能を保存・強化した弓でありました。伝統の竹弓は、現代では弓師は自分の銘を弓に入れており、ミヤタも自身の名前を銘にした矢羽根ロゴマークのMIYATAを、現在の銘のスタイルにしています。

初期の弓から、ミヤタのグラスファイバーFRP弓は、FRPの素材の色合いともあい、伝統の塗弓にもある黒色に塗った弓、を標準色として展開していました。一般的な弓道場では、すでに当時竹弓も合成接着剤で製作された弓が主流となっており、ニベ弓と異なり夏場でも白木竹弓が引ける環境となっていた為、高価な塗弓を普段使いしている弓引きの方はほとんどおらず、道場で使用される竹弓はほとんどが白木竹弓であった為、真っ黒で竹の節の無い表面がツルンとしたグラスファイバーFRP弓は、あまりにも見た目が白木竹弓と違うこともあり、販売開始当初はなかなか受け入れられないところもありました。

宮田純治は自身が製作する弓の性能は自負していたので、そこで、普及(FUKYU)のF型として簡易塗装した「F型」を廉価に販売し、まずは手に取って使ってもらうことを目指しました。そのような様々な取り組みが奏功し、既に昭和47年頃にはミヤタのグラスファイバーFRP弓は、高校・大学弓道部等を中心に、学生向け中心に注文が大幅に増えました。

月刊「弓道」(全日本弓道連盟刊行)昭和47年9月号掲載のミヤタのグラスファイバーFRP弓の広告

既にミヤタのグラスファイバーFRP弓の弓が学校弓道部を中心に人気が出始めた頃

その需要増に対応しきれなくなり、増産の要望が様々なお客様からありました。その為、昭和47年にミヤタ総業株式会社として法人化し、当時日本でスキー生産が盛んで、一部工程に似たところがあるスキー工場への生産委託による、大規模製作も一時おこないましたが、現在では基本に立ち返り、伝統の竹弓のように小規模の手作りの弓製作のみ行っています。

1977年キャンベラ世界選手権アーチェリー男子個人銀メダリスト 亀井孝様による、グラスファイバーFRP製のアーチェリーの弓が日本にもたらされた経緯、及び宮田純治が弓道用のグラスファイバーFRPの弓を開発した件についてもアーチェリーの視点でご説明頂いており、参考までにリンクを貼付させていただきます。

Pro Select Project 第二十四回 世界弓術選手権大会

https://www.a-rchery.com/2022/06/21/miyata/