全日本弓道連盟による第24回世界弓術選手権大会(World Archery Championships 1967)への和弓選手派遣
1964年(昭和39年)の東京オリンピックおいて、アーチェリーが正式種目となる予定(実際にはエントリーが少なく1972年のミュンヘンオリンピックに延期)で、その当時は弓道・アーチェリー双方の国際競技への選手派遣の参加権は、全日本弓道連盟(当時は財団法人)が持っており、弓道の国際大会は当時無かったこともあり、アーチェリー大会参加を通じた弓道の国際化に向けた取り組みを含め、全日本弓道連盟でも様々な取り組みがなされました。
1967年(昭和42年)に、オランダのアメルスフォートにて開催された第24回世界弓術選手権大会(World Archery Championships 1967)への出場に向け、弓道・アーチェリー混合の日本代表選手選抜の強化合宿も開催され、全国からアーチェリー・和弓の代表選手候補が招集されました。そこでの遠的競射会で、和弓部門第1位、アーチェリー・和弓部門混合部門でも第4位となった宮田純治は、全日本弓道連盟より正式に和弓の代表選手として、唯一選抜され、初代全日本弓道連盟会長の宇野要三郎先生より任命され、大会に出場することになりました。
この大会は、男子は30m、50m、70m、90m(男女で距離が異なり、90mは男子のみ)のそれぞれの距離を、36射ずつひいて計144射が1ラウンドとなり、2ラウンド行われる競技になります。
今でこそアーチェリーのルール下で、和弓とアーチェリーで的中競争するのは無理があるのではないか、と思われるかもしれませんが、それ以前、まだアーチェリーが旧式の弓具だった時代には、日本の弓道の和弓とアメリカのアーチェリーの選手団の親善試合等では、均衡した試合が展開された時代もあったのです。
そのような背景もあり、1964年の東京オリンピックを契機に、国際弓射競技のアーチェリーに関心を持ち研究していた全日本弓道連盟は、和弓でアーチェリー大会で成績を残すわずかな期待を、アーチェリー混合部門でも4位という成績を修めた宮田純治に託しました。
しかしながら、この昭和40年代にはすでに、アーチェリーの弓具は目覚ましい進化をとげており、グラスファイバーFRPを使用したリム(弓本体の一部)を使用した弓、ジュラルミン矢、矢勢・的中に非常に重要な正確な矢束をとれる装置クリッカー、弓を安定させ離れの時のショック(振動)を逃がすスタビライザー等が開発されており、矢勢、的中が飛躍的に向上していました。
一方で、弓道の弓具は合成繊維の弦は実験的な使用がはじまっていたものの竹弓、竹矢のみの時代で、矢はアーチェリー用のジュラルミンシャフトを弓道用の長さに切って実験的に使用したりと、まだアーチェリーで開発されたものを転用し試行錯誤している段階でした。そのような状況の中、この大会参加に必要な和弓の弓具は、既に存在するもの以外は宮田純治が自分で工夫したり開発して用意しなければならず、これが必要にせまられ、ミヤタのグラスファイバーFRP日本弓が生み出された原点になります。
この世界弓術選手権大会で世界レベルのアーチェリー選手と弓道の射法・和弓でもって的中競争することがどのくらい厳しいのかと言えば、すでに当時一番短い距離の30mにおいても、300点出せないと上位入賞は厳しいだろうと言われておりました。話を単純化するために、アーチェリーの的の10点が直径12cm程度で近的の星的の星と同じ大きさくらいですが、6射完全に外して0点だった場合、36射中30射すべて星に中てて、やっと出せる点数です。こういう極端なケースは少ないにしても、36射中30射的中の的中率83%は、弓道の的中率としては良いと思いますが、世界レベルのアーチェリー競技ではかなり厳しく、当時近的でも平均で8割~9割超の的中率だった宮田純治でも、ギリギリの挑戦でした。
近距離でもそれだけの厳しい状況の中、70m、90mと、和弓の60mよりも更に長い距離の的の、直径12cmの10点を狙って的中競争することは、以前紹介した五射六科で発達してきた弓道の遠距離弓射において想定されていなかった、弓道の弓射、伝統の弓具においても、かつてない未知の挑戦でした。
宮田純治は、1967年の世界弓術選手権大会出場に向け、全日本弓道連盟が主催する強化合宿に参加し、大会に向けた厳しい練習と並行して、世界のアーチェリー選手と的中競争する為、伝統の弓道の弓具のそれぞれの特性・性能を把握する徹底的な弓具研究をすることになりました。